家族の絆が生んだ悲願の五輪金

2019/07/26 - ファンクラブ通信

不屈の女王が語る、八戸への思い

2012年ロンドン五輪レスリング女子48㌔級の金メダリスト小原日登美さん(38)=旧姓坂本、八戸市出身=。世界選手権を8度制しながら、階級を巡る苦悩と挫折を味わった末に、長い間の悲願である五輪金を獲得した「不屈の女王」だ。その競技人生を振り返りながら、故郷・八戸への思いを語ってもらった。

父の「市場通い」が支えに

3歳下の弟、5歳下の妹も自衛隊で活躍した元レスリング選手。その「坂本きょうだい」の長女が、世界女王に上り詰めるまでの半生をたどると、いつも傍らには家族が寄り添っていた。

競技との出会いは八戸市立白銀小3年の時。八戸キッズレスリング教室に通う弟に付いていったのがきっかけだ。後を追いかけるように妹も始めると、高校時代に駅伝で鳴らした父の血が騒いだ。きょうだいを学校に行く前、朝早く起こして走らせる生活が、小原さんが中学校になるまで続いたのだ。

3交代制の職場だった父は、週末に休みが合うと夜勤明けも寝ずに遊んでくれた。スケートや水泳、卓球にも付き合ってくれ、きょうだいの運動神経は自然と養われていった。

父は料理上手でもあった。実家から程近い陸奥湊駅前の魚菜小売市場に出掛けては、魚を買い込んで自ら包丁を握った。この「市場通い」は、過酷な減量を強いられた五輪前の小原さんを支えた。

本番3カ月前。まな娘が練習に集中できるよう、家事をサポートするため母が駆け付けた埼玉県富士見市の自宅に、八戸に残る父から頻繁に届いたのはカラスガレイだった。

「肉より魚がいいからと送ってくれました。脂っこくなく、さっぱりしておいしい。母が作る夕飯で週3、4回は食べましたね」

苦悩の末につかんだ頂点

女子レスリングが五輪種目となったのは2004年のアテネ大会から。その3年前に種目入りが決まった時、小原さんは大学3年で、世界選手権を連覇し破竹の勢いだった。

確固たる目標として見据えた五輪。しかし、主戦場だった51㌔級が五輪で実施されないことが明らかになると、苦悩の日々が始まった。国内予選では48㌔級の妹との代表争いを避け、55㌔級に挑んだ。相手は無類の強さを誇る吉田沙保里選手。敗北を喫し、五輪出場は遠のいた。そして、ずっと張り詰めていた糸が切れた。

「03年の夏に八戸に戻って引きこもり、3カ月で体重が20㌔増えました。何をどうしていいのか、分からない状況でした」

再びマットに戻るきっかけとなったのは、同年末に八戸キッズの合宿で訪れた母校の八戸工大一高の道場。偶然、年明けに自衛隊で行われる合宿の案内を見かけ、参加した。

「軽い気持ちで行ったけど、そこでレスリングの楽しさに改めて気付いたんです」。再起を目指し、05年に入隊。北京五輪でまたも出場のチャンスを逃し、一度は引退した。しかし、次のロンドン五輪では妹の階級を引き継いで再挑戦し、夢舞台への切符を手にした。

私生活では10年、母校レスリング部の1年後輩だった小原康司さんと結婚。家族の絆は幾重にも強くなっていた。ロンドン五輪では、その支えもあって悲願の頂点をつかんだ。

古里は「常に帰れる場所」

ロンドン五輪後に引退。今も埼玉県に住み、自衛隊のコーチとして後輩の指導に当たっている。家庭では2児に恵まれ、母としても忙しい毎日を送る。出身地の八戸については、「海のにおいや市場の雰囲気が好き。ほっとするし、また頑張ろうと思えます。常に帰れる場所でありたい」と語る。

将来的に帰りたい気持ちもあるが、当面は帰省程度にとどまりそう。「でも、仮に明日から数日戻っていいと言われてもシミュレーションは完璧なんです。八食センターですしを食べ、その夜と翌日の朝は銭湯に行って、陸奥湊で朝ご飯を食べて…」。八戸愛はとどまるところを知らない。(※本文中の年齢は取材時点)

[デーリー東北新聞社東京支社編集部 藤野 武]

 

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