逆境はねのけ夢舞台で活躍
五輪アイスホッケー女子代表で2大会出場
冬季五輪のアイスホッケー女子日本代表「スマイルジャパン」の一員として活躍した中村亜実さん(32)=青森県八戸市出身=。2014年のソチ、18年の平昌(ピョンチャン)の2大会出場という輝かしい実績の裏では、競技に集中できる環境を求めて2度の転職を経験するなど、人知れず苦労も重ねてきた。
猛練習に耐えた学生時代
1998年、五輪でアイスホッケー女子種目が初めて採用された長野大会をテレビで観戦した中村さんは、日の丸のユニホームに憧れた。まだ競技を始めて3年ほどの小学生だったが、「より代表に近づける場所でプレーしたい」と、五輪出場を目指す決意を固めていた。中学3年で単身上京し、強豪コクドレディース(現西武)の門をたたいた。
高校3年からは日本代表にも選ばれ始めたが、それからの練習は熾烈(しれつ)を極めた。1週間で100㌔走破が課せられた合宿。死に物狂いで食らい付いても、時には代表選考から漏れるいらだちから、リンクを離れることもあった。それでも大学4年の時には、コクドレディースの主将として全日本選手権3連覇に貢献した。
全てを出し切った平昌
学生時代は脇目も振らず競技に打ち込める環境が整っていたが、社会人になると状況は一変した。国士舘大卒業後に教員免許を生かして都内の幼稚園に就職し、担任を持つと、思うように時間が取れなくなった。仕事を終え練習場所に急いでも、終了15分前に着くのが精いっぱいだった。
この時、日本女子チームはソチ五輪への初の自力出場を目指し、強化練習に本格的に取り組んでいた。「(十分練習に取り組めていない自分が)代表に選ばれることに罪悪感を感じ始めた。仕事よりアイスホッケーを一生懸命やる時期じゃないかって」と当時の心境を振り返る。
2年ほどで幼稚園を退職。飲食チェーン店の契約社員に転じ、以前よりも練習に時間を割けるようになったものの、今度は不安定な収入に頭を悩ませる日々が始まった。合宿に行くたびに数万円の自己負担が生じ、出勤日数が少なくなると給料も目減りした。
給料は最低で5万円まで落ち込んだ月もあり、資金面では両親に頼らざるを得なくなった。そんな時、日本オリンピック委員会(JOC)の就職支援制度を通じて出会ったのが、現在も勤める玩具メーカーのバンダイだった。
13年9月に入社した中村さん。仕事と練習を両立しながら、地に足を着けて戦える環境が整った。ソチ五輪ではFW(フォワード)としてメンバー入りし、日本女子の自力出場に貢献した。その4年後、初勝利を含む二つの白星を挙げた平昌五輪でも活躍した。「目標だったメダルに近づけない悔しさもあったけど、とにかく楽しんだ」。全てを出し切った大会の後に、現役を引退した。
人生は戦いの連続
今はバンダイのグループ会社で人事や研修を担当している。これからの課題は、先に入社した同年代の社員に負けないように頑張り、アスリートとしてのセカンドキャリアをどう築いていくかだ。「私が競技人生を歩んできた間に、同じ年の子は着実にキャリアを積んでいる。やっぱり、人生はずっと戦いの連続なんだと思う」
一線を退いてからは、故郷の八戸で家族と過ごす時間も増えたという。「夏は甲子園に出た八戸学院光星高野球部の試合を、テレビで一緒に見ながら応援した。他の人より地元愛が少ないと思っていたけど、根っこの部分に気持ちがあるのかな」と笑う。
地元ではアイスホッケーに親しむ子どもたちが、自分もかつてそうだったように、五輪を夢見てリンクを駆け回る。中村さんは「目標や夢に向かって一生懸命努力してほしい。頑張れば夢はかなう」とエールを送る。
(※本文中の年齢は取材時点)
[デーリー東北新聞社東京支社編集部 藤野 武]
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